子どもが私のことをパパと呼んできます。ちょっと前までは〝ティーチャーコーターイ!〟ってかわいくよんでくれたのに。今では〝パパコータイ!〟とな。ある子にいたっては〝セメイ コータイ!(私のお父さんはコータイです!)〟とチューク語で友達に自慢げに言い出す始末。
パパー!パパー!
と言いながら抱きついてくる子どもたち。かわいいからいいんですけどね。
でもよく考えたら子どもの歳は二年生で七歳、三年生で八歳ってとこ。
うーん。二十一、二歳ぐらいで子ども作ってたら私の子どもはもうそのぐらいの年齢でもおかしくないわけで。子どもからしたら結構パパの理想年齢ってところみたい。
そんなことを考えながらフェイスブックをぼーっと見てたら先輩や同級生はまだしも、後輩、それどころか自分の教え子にも既に子どもがいるではありませんか。
あぁ。子どもかぁ。
帰国して出来たとして子どもが小学校いくころには三十代半ば。
その頃、子どもと一緒に遊べるかしら。今、学校で子どもたちと遊んでるように。
一児のパパとか二児のパパなんて言葉はよく聞くけど、私はゼロ児のパパ。
自分の子どもはいないくせに、〝パパ〟と呼ばれる度にいろんなことを考えさせられてしまいます。
パパなんて呼ばれると妙に感情移入しちゃって、この生徒が自分の子どもで、この学校の状況だったら…なんて思ってやきもきするのです。でもそんな気分になってぜんぶぶち壊したくなるたびに〝セメント樽の中の手紙〟の一説が浮かんでくるのです。
へべれけに酔っぱらいてえなぁ。そうして何もかもぶち壊してみてえなあ。
へべれけになって暴れられてたまるもんですか。子どもたちをどうします。
この世界の問題という問題はほとんどが解けないパズルなんじゃないでしょうか。
一つの問題を解くためには他の何かを犠牲にしないといけないという矛盾をかかえた意地悪なパズル。もし神様がこの世界を作ったというのなら、神様は嫌なやつですよ。でも現実は人間がつくったこの世界。人間はきっと嫌なやつなんですよ。
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