2011年8月15日月曜日

第七週目。(戦争とチューク)


暑中お見舞い申し上げます。
第七週目突入、日本離れてだと第八週目、早二ヶ月が経とうとしています。この調子だと二年はすぐ終わりそうです。

この土曜日に山に登ってきました。下から見たらそんなに険しくない山だったからどうせ楽勝だろうと登りだしたものの、そんなに易しいもんではありませんでした。山に入るとチュークの子どもの能力は8倍ぐらいに伸びます。道らしい道はほとんどないのに、ずんずんと大きなナイフを片手に彼らは道を切り開いていきます。彼らは完全に道を体で覚えているから何の迷いもなくどんどん奥へ奥へ。森を駆け巡る彼らの姿はまるでロビンフッド!



一方、自分はと言うとぬかるんでいる斜面では盛大に滑るし、落とし穴みたいになってるところに見事にホールインワンしてしまうし、本当に泣きそうになりながら足を進めたのです。でも、危ない場所では、小学校3年生ぐらいのチビが何度も手を取り足を取り助けてくれたので無事に目的地へ到着。


そう、目的地はここ、防空壕。
こちらでは、今でもボークーゴーって言えば通じます。
防空壕は自分が想像していたよりも大きな大きな穴でした。穴と穴は内部でつながっており、大きな大きな暗い穴を抜けると今でも砲台がしっかりと原型をとどめています。
一台、二台。大きな穴にそれぞれ設置されています。



土曜日は13日、お盆真っ最中。なんだか難しいことを子どもたちに言ってしまいそうになったのですが、ケタケタと笑いながら砲台の上によじのぼる子どもたちを見て、辛気くさい話をするのはやめました。多分この地で散っていった日本の兵隊さんたちが欲しかったのはこんな日常だったんじゃないかと思うのです。いつか戦争が終わって、日本に帰ったら自分の子どもや家族とたわいのない話で盛り上がって、飯を腹一杯くって、笑って過ごすのを夢見ていたただの何処にでもいるお父さんであり、ただの兄ちゃんだったんでしょう。家族が好きで、だから上から言われるままに国を守ろうと必死になって、家族や兄弟、好きな人や子どもの写真を握りしめてまさに今自分が立っているこの場所で死んでいった人がいる。そんなことを考えていたらどうしようもなく切なくなってこっそり涙が流れました。真っ暗な防空壕の中で、だれも気づかないぐらいの音で手を合わせて「ありがとうございました」と。

山頂は草っ原になっていました。服を脱ぎ旗にして振り回す子ども。大人げなく走り回る自分。





やっぱりみんな揃ってケラケラと笑っています。


このかつて激戦区であったチュークで子どもが砲台をおもちゃにして遊んでいる姿を見ているとしたら、きっと彼らは笑っていると思うのです。
一度は火の海になったこの島で子どもが今はもう楽しそうに走り回っている。

戦争は美化してはいけないと思うし、確かに間違っていたのです。
ただ「日本は悪いことをしました」と卑屈になって全てにフタをしてしまうこともいけないと思うし、それもまた間違っていると思うのです。
私たちは日本が何をしていたのか、何をしようとしていたのかをもっと知る必要があるし、そうする義務があると思うのです。

ここに来てからある程度年配の現地人が口を揃えて言う言葉。

「日本が統治していた時代はよかった。」
「彼らは私たちと一緒に汗を流して働いてくれた。」
「ものを教えてくれた、働き方をおしえてくれた。」

「アメリカが統治するようになってこの国は変わってしまった。」

あの時代の日本とは何だったんでしょう。

「俺の名字は日本人の名前なんだぜ!曾お祖父ちゃんは日本人なんだ!」
「私の名前は日本語で書いたらどうかくの?」

とてもとても日本が大好きなチューク人。驚くほど日本びいきです。
さて、日本とは何なのでしょう。

終戦記念日の今日は慰霊碑の前にJICA有志で集まって黙祷を捧げました。



アホな話しか基本しないし、特段真面目に話し合わないチュークメンバーですが、この特殊な環境ゆえおそらくぞれぞれに思うことはあるのでしょう。

Sipwe iotek ngeni kinamwe, pwe sipwe oput maun.
(平和の為に祈りましょう、戦争はだれも望んでいないから。)

2 件のコメント:

  1. もう立秋過ぎたから残暑だよ。びしっ

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  2. >とくめーさん
    まあ夏しかない国やからあんましかんけいないでー。

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