2011年9月5日月曜日

第十週目。(先生と私)

朝起きたら隣の家のオバチャンがいませんでした。どうやらハワイに深夜便で旅立ったようです。多分ハワイの高校に通っている弟の世話をしにいくんやと思います。二週間ほど留守にするとのこと。昨日の夜に決めて、その足で空港にいったようです。うちの家族は突然アクションを起こすので予測ができません。

年末の任国外旅行先を迷っていたのですがフィリピンに決めました。グアムで年越しするのも考えたのですが滞在中のコストがフィリピンのが安いからね。




私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。

さて、先生とは何でしょうか。

授業が始まって気づけば一ヶ月が過ぎました。こっちの子どもにも慣れてきたし、月曜日やしぼちぼち気合いいれてこかなっと思い学校に着くとカウンターパートが来ていませんでした。先週土曜日から離島で行われている宗教のプログラムに参加してまだ帰ってきてないとのこと。まぁ、しゃあないから分からんながらにまるでさも当然かのように偉そうに担任代行をする訳ですね。

先生は基本的にどでーんと偉そうじゃないとあかんと思うわけです。高圧的に居座るという意味ではなくね、懐でかく、どっしりしてたらええんです。仮に現地語が分からんかったとしても、多少英語が通じなかったとしても、今から何するか分からんかったとしても。前に立つ時は偉そうにどーんと構えとったらええのです。子どもは信じてついてきてくれる訳で、そのついて行こうとしてる先生が揺らいでいてはそもそもの勉強する基盤が崩れてしまいます。

どでーんとするためにはどでーんとするだけの自信が必要な訳で、自信を作るのは自分のこれまでの努力と経験値であるべきですね。

「先に生まれた」とゆうてえらそぶる先生はいっぱいおるけど。そんなんゆうてもたら子どもは一生勝てませんやん。そんなおもろないのが先生とか笑止千万。そんな窮屈なところにおもろい学びの場なんてもんは成立しません。
「先を生きる」ことを努めるものこそが先生であるべきなんですな。後生畏るべし。足を止めたら子どもになんてすぐに追い抜かれますよ。いつもせっせと走っていたいと思えるうちはええ先生なんだと思います。

なんて、言葉の解釈で分かったような気分になれるから文章は素敵。

この国の先生はある意味で先生資質はすごく優れています。ものすごくみなさん尊大。どでーんとえらそうです。でも前者の方なんですな。努力をしない。毎日同じことをしているので成長性がない。だから子どもが吸収できる部分が少ない。なのに高圧的だから、子どもはどんどん萎縮して自分の考えをやめてしまう。そしたら勉強なんかおもろくなくなってもてますます勉強しなくなるのです。負のスパイラル。

「どうやったらええんかな?」
「どうやったらもうちょっと上手いこといくやろ?」
みたいな疑問がおこらへんのかなぁ。

真に軸のある先生は自分の作った枠の中で子どもの自由を認められるけれど、軸を持たずただ子どもをコントロールしていることに精一杯な先生はその崩壊を恐れて子どもの自由を認められない。

先生というのは難しいですな。そして、先生を育てるのはもっと難しい。
はてさて、先生とはなんでしょうか。

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